2019/11/26
Dearナマで踊ろう,
2019年11月26日、昭和女子大学人見記念講堂。
今日ここで観たものは、ああ何処かに書き留めておかないといけない、と思った。
曲が演奏されている中でも、いまその時思ったことを忘れないようにずっとパソコンのキーボードを打ちたかった。
まず、第一に坂本慎太郎はもう死んでいるのだと思う。
これについての解説はまたのちほど。
坂本慎太郎をライブで最後に観たのはゆらゆら帝国が解散する前だった。ゆらゆら帝国として最後ライブには行くことが出来なかったが、アルバム『空洞です』のツアーには行ったと思う。
今日観た、坂本慎太郎としてのライブはゆらゆら帝国の時のそれとは全く異なっていた。
例えばライブひとつ、列車のレールに例えるなら、ゆらゆら帝国では赤や緑の激しい色が飛び交う中、荒々しく列車は進み、とてつもなく熱を帯びたりするような。急発進したりする。
いまの坂本慎太郎はレールの上を20センチくらい浮いたところを、一定のゆっくりしたリズムで進んでいくような。浮遊している。
アンプの上からジャンプしたりしない、
耳が割れるほどのファズギターを弾いたりしない、
会場が沸かない。
あんなにも熱く狂うサックスのソロは、例えばファンクバンドのライブで吹かれたとしたら、みんな拍手と喝采、指笛の嵐になるはずなのに、会場の波長は一定を保っている。
全ての楽器の音が入り混じり、テンションを上げ、写真が白飛びしたような風景の瞬間もあったけど、そのテンションはそのまま白飛びして消えていく。
誰もいない部屋、
濡れたズボン、
何を見ても何もしない、
歌われる歌詞の中に核心は1つもなく、空虚ばかりを感じる。
ステージに立つ4人も顔が見えない。顔が無いんじゃないか。アルバム、ナマで踊ろうのジャケットにうつる姿が本当の姿なんじゃないか。
今あげた事柄を全てを含め考えた結果、坂本慎太郎はゆらゆら帝国を解散させたあと、ほんとうは死んでいるのではないか、という結論に至ったのです。
レーベルzeloneの意味である『zero』と『alone』が正にその通りでしょう!
というのは冗談ですけど、2011年からの坂本慎太郎には「無」が常につきまとい、それが彼の神々しい価値をあげ続けているように思います。
あと打ち込みとか使わないで全部ナマの楽器使うところもいいよね。フルートを多用するところも良いし、ウッドブロック、ヴィブラスラップとか細かなパーカッションが多いところ、すごく好きです。
敢えて言うなら、もう少しTシャツを多目に作ってくれ。売り切れちゃってたよ。
Sincerely,123